神の沈黙・遠藤周作

母なる神への旅・遠藤周作 沈黙から50年



マーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』が公開される少し前に
「母なる神への旅・遠藤周作沈黙から50年」という番組がNHK Eテレで放映されました。

映画化は、遠藤周作の沈黙が再度注目されるきっかけとなりました。

遠藤周作は大正十二年、東京に生まれました。
十歳のころ両親が離婚。キリスト教徒の母に育てられ十二歳で洗礼を受けます。


自分がお母さんから受け取った信仰というものが、自分の肌にぴったり来ず、
違和感を感じるもの。。。遠藤さんの言葉で言うと、「合わない洋服を着せられた」と表現してます。
それを何とか自分の肌に、自分の身の丈にぴったり合うものにしたいというのが、遠藤さんの文学の大きなテーマになっていったそうです。


カトリックの留学生として、フランスに行き、 カトリックの本場の世界に行って、自分のものにできるかもしれないと。。。
でも、実際に行ってみると、反対だったわけですね。と解説されていました。





帰国後信仰への違和感を埋めようと執筆に臨みました。
しかし結核が襲い、長い入院体験になりました。
その時に『沈黙』が熟されていったということを、遠藤さんは語っています。




「その時に一番神に問いかけた」とも言っています。
神様のことをこんなに問いかけたことはなかったという。
病院では、幼い子供が病気で大変苦しんでいる姿に出会っていく。
そして、そういう子供が苦しみながら亡くなっていったりする。
「神様 何でこういうことが起きるんだ」と問いかけます。
結核再発のために、二回手術をし、いったん良くなりそうになって仮退院したら、また悪くなって、。。。。
死と向き合う中でどうしてこういう苦しみが与えられるのか、神に問い続けていたそうです。

本来神が苦しんでいる自分を助けてくれる。
何か力ある技を働かせて現状を変えてくれるようなことでも起きればいいわけですけど、
でもいくら祈って問いかけても、そういうことは起きないわけですよね。
逆にどんどん病気の方が悪くなっていったわけで。遠藤さんはこういう言い方もしています。
後になってですね、「神や仏なんかあるものか、というぐらいもう祈っても、現実が変えられない。
そういう苦しいところに、どん底まで落ちていく。
そこから本当の宗教、本当の信仰の問題が始まる」と。



そこからそれでも問いかけている中で、神はそういう現実を変えるということよりも、この苦しんでいる自分に寄り添って、この苦しみを共にしてくれている存在なんだ、と気付くという宗教体験があったそうです。

人間が本当に苦しいというのは、病気そのものの苦しみということ以上に、自分がこの苦しみを自分だけで背負って、誰もこれを理解してはもらえない。
そういう中で一人で孤独に苦しむことほど、人間にとってつらいことはない。
この苦しみを誰よりも分かって、それを共にしてくれるそういう存在が神のまなざしだ、と気づいた。。。。病床体験の中で、宗教体験とも言えるようなことがあったそうです。


ーー「沈黙」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
物語は、江戸時代、キリスト教禁制下で、島原の乱が鎮圧されて間もないころ、長崎からローマへと届けられた一通の知らせから始まります。

 
ローマ教会に一つの報告がもたらされた。
ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊(あなづ)り」の拷問(ごうもん)をうけ、棄教(ききよう)を誓ったというのである。
この教父は日本にいること二十数年、地区長(スペリオ)という最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。
 
あのフェレイラはなぜ信仰を捨てたのか。真相を確かめるため一人の司祭が長崎へ派遣されました。
主人公のロドリゴです。
日本での殉教者は名前が分かっているだけでも数千人と言われていました。
ロドリゴ(セバスチャン・ロドリゴ)は、身を隠しながら、村人の信仰を守ろうとします。
そんな中、村人モキチとイチゾウが踏絵を踏まなかったため処刑されます。
海に立てられた十字架にくくられ、潮が満ちるごとに水に埋もれるという拷問でした。
彼らは祈りの歌を歌い続けました。
 
引き潮になったあと、二人の括られた杭だけがはるかにぽつんと突ったっていました。
もう杭と人間との区別もつかない。
まるでモキチもイチゾウも杭にへばりついて杭そのものになってしまったようでした。
ただ、彼等が生きているということは、モキチらしい暗い呻(うめ)き声が聞えてくるからわかりました。
 
信仰を貫いた村人が、海に立つ杭にくくられたまま衰弱死させられます。
そこにはロドリゴが信じていたキリストの世界はありませんでした。
 
殉教でした。
しかし何という殉教でしょう。
私は長い間、聖人伝に書かれたような殉教を―。
たとえばその人たちの魂が天に帰る時、空に栄光の光がみち、天使が喇叭(らつぱ)を吹くような赫(かがや)かしい殉教を夢みすぎました。
だが、今、あなたにこうして報告している日本信徒の殉教はそのように赫(かがや)かしいものではなく、こんなにみじめで、こんなに辛いものだったのです。
ああ、雨は小やみなく海にふりつづく。
そして、海は彼等を殺したあと、ただ不気味に押し黙っている。


村人の殉教を目の当たりにしたロドリゴは、孤独と恐怖の中、山をさまよい歩きます。
救いを求めますが、神は沈黙を続けます。

「あなたは何故、すべてを放っておかれたのですか・・・・・・
我々があなたのために作った村でさえ、あなたは焼かれるまま放っておいたのか。
人々が追い払われる時も、あなたは彼らに勇気を与えず、この闇のようにただ黙っておられたのですか。
なぜ。
そのなぜかという理由だけでも教えてください。」
とつぶやいた。


(しかし、万一・・・・もちろん、万一の話だが)胸のふかい一部分で別の声がその時囁(ささや)きました。
(万一神がいなかったならば・・・)これは怖ろしい想像でした。
彼がいなかったならば、何という滑稽(こつけい)なことだ。
もし、そうなら、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウの人生はなんと滑稽な劇だったか。
多くの海をわたり、三ヵ年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちはなんという滑稽な幻影を見つづけたのか。
そして、今、この人影のない山中を放浪している自分は何という滑稽な行為を行っているのか。


弾圧を恐れ、山をさまようロドリゴ。
その前にキリスト教徒のキチジローが現れます。
キチジローは、役人の脅しを受け、すぐに踏絵を踏むような人間でした。
そして、キチジローは、役人に脅され、銀三百枚と引き換えに、司祭パードレと慕っていたロドリゴを売り渡します。
ロドリゴは役人に捕まり奉行所へ連行されます。
 
「パードレ。ゆるしてつかわさい」
キチジローは地面に跪(ひざまず)いたまま泣くように叫びました。
「わしは弱か。わしはモキチやイチゾウごたっ強か者(もん)にはなりきりまっせん」
男達の腕が私の体を掴み、地面から立たせました。
その一人が幾(いく)つかの小さな銀を、まだ跪いているキチジローの鼻先に蔑(さげす)むように投げつけました。
 
ロドリゴは役人に捕まり、奉行所へ連行されます。
 
基督がユダに売られたように、自分もキチジローに売られ、基督と同じように自分も今、地上の権力者から裁かれようとしている。
あの人と自分とが相似た運命を分かちあっているという感覚はこの雨の夜、うずくような悦びで司祭の胸をしめつける。
それは基督教徒たちが味わえる神の子との連帯の悦びだった。
 




牢に入れられたロドリゴは、闇の中から聞こえてくるうめき声に悩まされます。
そこにかつての師フェレイラが現れます。
うめき声は穴につるされている信徒のものだと告げ、自らの経験を話します。
 
「わしが転んだのはな、いいか。
聞きなさい。
ここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。
わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」
「黙りなさい」
「では、お前は祈るがいい。あの信徒たちは今、お前などが知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ。
昨日から。
さっきも。
今、この時も。
なぜ彼等があそこまで苦しまねばならぬのか。
それなのにお前は何もしてやれぬ。
神も何もせぬではないか」
司祭は狂ったように首をふり、両耳に指をいれた。
 
取り乱すロドリゴに、更にフェレイラが畳みかけます。
踏絵を踏めば、拷問を受けている日本人信徒が救われるというのです。
しかし、ロドリゴは踏絵を踏もうとしません。
フェレイラは静かに語りかけます。
 
「お前は彼等より自分が大事なのだろう。
少なくとも自分の救いが大切なのだろう。
お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。
苦しみから救われる。
それなのにお前は転ぼうとはせぬ。
お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。
このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ」
そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって

「わしだってそうだった。
あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。
だが、それが愛の行為か。
司祭は基督にならって生きよと言う。
もし基督がここにいられたら」
フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐはっきりと力強く言った。
「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」
 
ロドリゴは、大声で泣きだしました。
よろめき、足を引きずりながら一歩一歩進み、踏絵は今ロドリゴの足元にありました。
 
司祭は足をあげた。
足に鈍い重い痛みを感じた。
それは形だけのことではなかった。


自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。



この足の痛み。
その時踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。



「踏むがいい。

お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。
私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。
 







ロドリゴが踏絵を踏んだあと、物語の真価が発揮されます。

踏んでから五年後のこと、ロドリゴの前に彼を裏切ったキチジローが姿を現します。
 
「わしは、パードレを売り申した。踏絵にも足かけ申した」
キチジローのあの泣くような声が続いて、
「この世にはなあ、弱か者(もん)と強か者のございます。
強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺(おい)のように生まれつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ・・・」
その踏絵に私も足をかけた。
あの時、この足は凹(へこ)んだあの人の顔の上にあった。
私が幾百回となく思い出した顔の上に。
 
ドリゴは、踏絵を踏んだ時のことを思い返していました。
踏絵に刻まれていたあの日のキリストの顔を、声を。
 
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。
今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。
だがその足の痛さだけでもう充分だ。
私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。
そのために私はいるのだから)
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。
去ってなすことをなせと言われた。
ユダはどうなるのですか」


「私はそう言わなかった。
今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているように、ユダにもなすがいいと言ったのだ。
お前の足が痛むように、ユダの心も痛んだのだから」
 


寄り添い、ゆるす神の愛を感じたロドリゴは、キチジローに伝えます。
私たちの弱さを一番知っているのは神だけなのだと。
 
「強い者も弱い者もないのだ。
強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」
司祭は戸口にむかって口早に言った。
「この国にはもう、お前の告悔(こつかい)をきくパードレがいないなら、この私が唱えよう。
すべての告悔の終りに言う祈りを。
・・・安心して行きなさい」
ロドリゴは、これまで縛られていた自らの信仰の形から解き放たれました。
今までとはもっと違った形であの人を愛している。
私がその愛を知るためには、今日(こんにち)までのすべてが必要だったのだ。
そしてあの人は沈黙していたのではなかった。
たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。
 



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厳しい父なる神に対して、「優しく包み込む、母なる神」の愛
そのまま全てを自分の全てを受け止めてくれる、受け止めゆるしてくれる、そういう本当に慈しみの慈母のまなざしのようなものに出会ったロドリゴであり、遠藤周作だった。

「母なる神への旅・遠藤周作 沈黙から50年」